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【コラム】ゲームアプリの「コラボ」とキャラクターのミメーシス、シュミラークル消費

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【コラム】ゲームアプリの「コラボ」とキャラクターのミメーシス、シュミラークル消費

日頃あんまりテレビは見ないんですが、たまに見るとゲームアプリのCMの多さに驚くことがあります。それらはCMも実に豪華なものが多く、例えば大物俳優や有名アイドルを起用していたり、大がかりなセットを使って撮影していたり。

自分の中では「有名タレントをCMに使うのは任天堂だけ(ができるすごいこと)!」みたいな思い込みがあったんですけど、今や全然違うんですね。まあよくよく考えてみれば数年前のソーシャルゲームの時に既にそのような流れはありました。

前置きはさておき、それにしてもゲームアプリのCMでよく流れているものの一つに、「ほかのアニメやマンガなどサブカル作品○○とのコラボ」というのがあります。

が、これってちょっと考えてみると面白いことです。

・”コラボ”を可能にするコンテンツの総合性

すなわち「〇〇コラボ」が可能になるということは、『あるキャラクターを引っ張ってきたサブカル作品、あるいはコラボ先のゲーム両方において、「”コラボ”をしても作品の世界観なりゲームアプリのシステム統合性が棄損されない

ということを示しています。このような”コラボ”は通常、アメリカ製アプリにおいてはほとんどありません。そのようなことをしたらゲームシステムが崩壊するからです。

海外では加えてコラボ供給元である、コンテンツの方の事情もあるでしょう。なぜなら、これは映画評論家の町山智浩さんが良く解説してくださるように、

例えば

・(ネオコンが目指したような)圧倒的な軍事力による専制的な世界平和が可能か、が裏テーマの『ウォッチメン』

・アメリカ軍がベトナム戦争中に行った「ソンミの虐殺」に代表される国家犯罪と愛国心との葛藤。パトリオットとは何か。または大きな政府⇔小さな政府論争が裏テーマの『キャプテンアメリカ』

などなど、海外コンテンツはその背景に、なかなか壮大にして深遠な世界観が存在するため、無暗にコラボなどすると、その世界観が崩れてしまいます。

まあそうは言っても、これらはあくまでも「裏」テーマ、それを直視せずとも作品それ自体を楽しむことは可能であり、そのため実際のところ「アベンジャーズ」やら今制作中の「ジャスティスリーグ」やら今年公開された「スーサイド・スクワッド」やらが存在するのはよく知られた通り。

そのため日本⇔海外のコンテンツの違いは程度問題にしかないようです。日本のコンテンツにも壮大な世界観を伴った作品があるのは一目瞭然ですし。

もちろん海外アプリにも広大な世界観と物語性を備えていないアプリは存在します。だがその場合、今度は日本コンテンツのような豊かなキャラクター性が失われることがままあるようです。有名海外ゲームアプリで、キャラクターをパッと思いつけるようなゲームアプリがいくつ見つかるでしょうか。

・「世界観消費」と「データベース消費」

さて、これらの日米コンテンツの違いの特徴は、そのまま評論家の大塚英志氏と東浩紀氏が述べる「世界観消費」と「データベース消費」の概念に対応します。

すなわち「世界観消費」とは、ユーザーは通常の文学作品のように、その作品の骨をなすストーリー、背景にある世界観や設定といった「大きな物語」を消費します。これはオーソドックスな文学作品に共通するもので、そして米国のコンテンツがこれに対応しています。

一方、「データベース消費」ではストーリーや世界観などは脱構築され、存在の薄いものとなっています。ユーザーはここにおいては「キャラクター」を中心に消費するのですが、そこでのキャラクターそのものも、微小たる差異の組み合わせによってミメーシス(模倣)された創造物でしかありません。これには日本のコンテンツが対応します。

そして東氏はこの原作と模倣との区別があいまいなシュミラークルという状態を、ヘーゲル研究で知られるコジューブを引き合いに出し「動物化」と呼びました。

「動物化」といわれるとなんとなく失礼な呼び方のようにきこえてきますが、「優性遺伝」「劣性遺伝」の正しい意味と同じく、別にどちらが優れているだとか劣っているのかを意味しているものではありません。まあ単純に言ってしまえば「ストーリー萌え」か「キャラクター萌え」かの違いでしかないですね。

これら消費形態の違いが生まれた背景には、

・元となっているメディア形式(ビジュアル要素の強いメディアが下地か、そうでない文学が下地か)

・作品が生まれた時代背景(キャプテンアメリカは1940年代の戦間期、ウォッチメンは80年代、X-MENは60年代などアメコミの多くは戦間・冷戦・ビートジェネレーションなど、政治の風が流れた時期に生まれている。また資本主義⇔共産主義のいわゆる「大きな物語」がまだ流布していた時期である。一方、日本のサブカルは90年代以降の、冷戦の崩壊と消費のエピクロス主義の影響が根強い)。

などなど、まあ色々と考えられそうです。

本当はもう少し、話を発展させ今更ながらフランシス・フクヤマやらジャミロクワイやらを絡めて書こうと思いましたが、面倒くさくなってきたし、そもそもどうせ誰も読んでいないだろうから、ここで終わりにしたいと思います。。

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