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【映画レビュー】『アリスのままで』:原作本1800万部の背景にあるアメリカ社会の過剰な若さ信仰と老いへの恐怖

【映画レビュー】『アリスのままで』:大ベストセラーから見え隠れする、アメリカの過剰な若さ信仰と老いへの恐怖

(映画レビュー:週に1,2回のペースで更新予定です)

あらすじ

言語学教授のアリス(ジュリアン・ムーア)は、まさに人生の充実期を迎えていた。高名な言語学者として敬われ、コロンビア大学の教授として学生たちから絶大な人気を集めていた。

夫のジョンは変わらぬ愛情にあふれ、幸せな結婚をした長女のアナと医学院生の長男のトムにも何の不満もなかった。唯一の心配は、ロサンゼルスで女優を目指す次女のリディアだけだ。

ところが、そんなアリスにまさかの運命が降りかかる。物忘れが頻繁に起こるようになって診察を受けた結果、若年性アルツハイマー病だと宣告されたのだ。その日からアリスの避けられない運命との闘いが始まる──。

主演:ジュリアン・ムーア

監督: リチャード・グラツァー&ワッシュ・ウェストモアランド

映画と同名の原作小説は海外でなんと1800万部も売れたらしい。とりわけアメリカでよく売れたようで、ニューヨークタイムズのベストセラーランキングには40週以上もチャートインしたとのこと。映画自体も批評家から高い評価を得て、主演のジュリアン・ムーアは2015年度のアカデミー主演女優賞を獲得した。

なるほど映画を見るとそのような理由も納得できて、この映画は次の3つの点においてアメリカで話題を呼びそうな内容となっている。すなわちそれは、アメリカ社会に存在する「①:徹底したリアリズム」「②:自立志向と若さ信仰」、そこから転じての「③:老いへの恐怖」である。

徹底したリアリズム

まず第一に「徹底したリアリズム」の存在だ。一般的に、アメリカ人は「映画」に対して現実の延長を求めるものと言われている。この点は映画をあくまでも虚構と位置づける日本人と違うところであり、例えばそれは「ゴジラ」の捉え方に表れている。

ゴジラやウルトラマンや仮面ライダーなど特撮モノの科学的におかしい点を面白おかしく紹介した「空想科学読本」という本が一昔前にベストセラーになったけれど、あの種の解説を待たずとも、日本版『ゴジラ』を見て、あれを実際に存在するものとみなす日本人はいない。一方、アメリカ版、特にローランド・エメリッヒ版のゴジラは爬虫類の生物として、その姿形から食生活、生殖活動、行動の動機に至るまで細部にわたって現実性にこだわったものとして出来上がった。

日本版(とりわけ初期)ゴジラが原爆の恐怖や先の太平洋戦争で命を落とした人々のメタファーだったのに対し、あくまでもアメリカ版ゴジラは現実の動物の延長線上にある。そしてエメリッヒ版はそのリアリズムが裏目に回り、日本版のような、考えさせる内容からは離れただのパニック映画と化し、結果駄作扱いされた。

このリアリティの存在が良くも悪くもアメリカ映画の特徴である。名作『市民ケーン』で知られるオーソン・ウェルズが1938年に『宇宙戦争』のあらすじをラジオで話した際、アメリカ市民がその内容に驚いて大パニックが生じたという逸話があるが、そのようなことは日本ではまず怒らないだろう。

一方で、数年前、日本映画『テルマエ・ロマエ』で阿部寛が主人公のローマ人を演じていたが、コメディ映画ということを抜きにしても、仮にアメリカでそういうことをすれば、日本と異なりヒットはしなかっただろう。

さてこの映画も リアリズムに満ちている。これは原作者が現役の脳神経科学者、そして監督がALS患者というのもあった(監督は映画公開後すぐに亡くなった)のかもしれないが、観賞中はその現実志向がただただ胸に刺さる。見ていて非常につらい。

冒頭、聡明だったコロンビア大学教授のアリスは、次第に言葉を失い、家の場所が分からなくなり、授業も覚束なくなり大学をクビになる。そしてトイレの場所が分からなくなり失禁し、家族のことも忘れ、好きな食べ物も忘れ、病状がひどくなった時のためにあらかじめ用意しておいた自殺も失敗する。最後は一言二言しかしゃべれなくなり映画は終わる。

周りの家族も懸命にサポートはしているものの、言葉には出さないまでもその態度は着実に冷淡なものに変わっていくし、医師である夫に至っては最終的に仕事にかこつけて同居を捨て単身赴任を選んでしまう。その様子はカフカの小説『変身』の主人公の家族の態度を思わせる。

余談だが考えてみると、『変身』は身体に何らかの障害を抱えるようになった人物の話だと思えば納得がいく。さらにどうでもいい余談だが、私自身、身体機能に関する難病指定の持病を抱えているので、この辺り非常に身につまされる。

自立志向と若さ信仰、転じての老いへの恐怖

そして先ほどの「②:自立志向と若さ信仰」「③:老いへの恐怖」だ。

アメリカはイギリス本国からの独立を求めて成立した出自からしてわかるように、独立・自立というものが国民の精神構造において基調をなしているとよく言われる。例えば同国における伝統=保守とは徹底して他者からの自由や自立を擁護するリバタリアリズムのことを意味するし、歴史的な事件を辿っても、独立戦争は言うまでもなく、南北戦争(奴隷制を巡っての北部と地方分権を求める南部の対立)、50年代のマッカーシズム(自由を脅かす全体主義国家ソ連への恐怖)など度々「自由」を巡って悲惨な爪痕を残してきた。

近年にしても、米国は最近ようやくオバマ大統領によって国民皆保険(らしきもの)が導入されたが、これについても導入が遅れたのは、アメリカ国民のあいだに国家という自由を束縛するものについて根強い嫌悪が背景にあったといわれている。

われわれ日本人の感覚すれば理解不能だが、米国民曰く「国民皆保険は共産主義化への第1歩」らしい。実はさきほど「国民皆保険(らしきもの)」と書いたのも、実のところ根強い反対から国民皆保険は導入できず、民間保険加入への金額補助になってしまったからだ。

また過去から現在に至るまで、銃による悲劇が後を絶たないのもアメリカの特徴だが、これにしても、銃というものがかの国では自由や抵抗の象徴として存在するため規制が困難というのだから根は深い。

この辺りの国民皆保険や銃に対してのアメリカ市民の精神性についてはマイケル・ムーアのドキュメンタリー『シッコ』『華氏911』が詳しい。

要するにアメリカでは「自由」というものがとかく重要視されている。そして「自由」やら「自立」というのは自分の意志で動くことが前提としてあるから、それを可能にするものとして「若さ」が尊ばれる。

例えば2001年のドキュメンタリー映画『デブラ・ウィンガーを探して』は、そんなアメリカ社会の若さ信仰を白日の下にさらす映画だ。

この映画はキャリアの途中にして家庭に入り表舞台から姿を消した女優、デブラ・ウィンガーの実態を探るために、ウィンガーのみならず数多くの女優へのインタビューを行なったものだが、劇中、女優達が口を揃えて語るのはアメリカ映画の若さ偏重だ。

女優たちはいずれも30代半ばになって、急にオファーが来なくなったことを述べる。30代半ばに差し掛かり、経験を重ね演技に円熟味を出すことが出来るようになったと女優自身が自覚できるようになっても、その時にはすでに彼女たちに活躍する場所は無い。そして若さを保つために女優たちは美容整形に走る。

この若さ偏重はヨーロッパとは異なるらしい。例えばイギリス出身の女優、トレイシー・ウルマンは次のように語る。「この国(米国)のとくに36歳ほどの女性を見ると腹が立つ。加齢を恐れ、シワ取りに走る『肌にはコラーゲン』『唇にはアイシング』『私の担当医は上手。ばれないよ』・・・がっかりするね」

別にこのような話はハリウッド女優に限った話ではない。ウルマンの言葉を裏付けるように、アメリカは世界一の美容整形大国である。国際美容外科学会(ISAPS)によれば、2014年アメリカの美容整形手術件数は406万件と2位以下にダブルスコアを付けてダントツトップ。実は日本は世界3位の整形大国だが、それでも126万件。人口を差し引いても、アメリカではいかに美容整形が人々にとって身近な存在なのかがわかる。

そしてこの若さ偏重と対をなして「老いへの嫌悪」が存在する。老いへの嫌悪感があるのは世界各国どこも同じように思えるが、とりわけアメリカ社会ではひどい。例えば進化生物学者ジャレド・ダイアモンドは著書『昨日までの世界』において、アメリカ社会を「若さカルト」とまで呼ぶ。

なるほど確かにことさら独立と自由を強調するアメリカのリバタリアン政治家の話を聞いていると、「この人、一生自分が若いままでいられると思っているかな」という気になってくる。アメリカの政治家に多大なる影響を与えたリバタリアン作家のアイン・ランドは、若いころはアメリカの公的医療を非難したが、結局は晩年、高齢者向け公的医療のお世話になったのだが。

ダイアモンドは、アメリカ社会の老人軽視は先にも紹介したアメリカ社会の独立・自立志向や個人主義に、現代社会の労働尊重主義と定年制が加味されて生じているとする。

そうするとこの『アリスのままで』がアメリカで話題をよんだ理由もクリアに見えてくる。アメリカ社会とはとりわけ若さ信仰と老いへの恐怖が根強いところであり、そこに加えて描写に関して妥協をしないリアリズム志向の老いの話が来るとなると、それはあたかもショック療法のように、人々の間にセンセーショナルな話題を振りまいたのだろう。

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