映画『桐島、部活やめるってよ』レビュー。人生の目的の失われた現代で「生きる」とは?

映画『桐島、部活やめるってよ』レビュー。人生の目的の失われた現代で「生きる」とは?

この映画は東出昌大さん演じる高校生、菊池宏樹のお話である。菊池君は一見何もかも備えている。見た目も良く、頭も良く、運動神経も良く、そしてキレイな彼女までいる。傍目には何もかも備えているはずの彼だが、それでもただ一つ「人生の意味」が欠けている。彼自身そのことには気付いており、そのため、あらゆることに対して今一つ煮え切らない態度を取ってしまう。

エンディングロールにおいて「菊池弘樹(   )」と空欄表記されているのは、そんな彼の「何もなさ」が表現されたものだ。

そんな中、みんなの精神的支柱であった生徒「桐島」がある日突然バレー部を止めたことにより、生徒の間でパニックが起こってしまう。桐島は学校に来なくなり、みんなの前から一切姿を見せなくなってしまった。映画中、ついぞ桐島は一度も姿を見せることはない。一体この「桐島」とはどのような存在なのか。

これについて映画評論家の町山智浩氏は、桐島とは「理想のメタファー(比喩)」なのだと述べる。これは別の言葉でいえば、「生きがい」「人生の意味」といったものだろう。

すなわち、頭が良く、スポーツ万能でみんなからの人気者であった桐島が皆の前から姿を消してしまったとき、彼を理想とし精神的な支柱としていた人々が見せる当惑と疲弊を描いたのがこの映画であり、そしてこの「理想や人生の意味の消失」というテーマは、単に高校生活にとどまるものではなく、現代に生きるすべての人に通底するものなのだ。

神の消失

どういうことか。これを理解するためには、人間の世界認識の変遷を通時的に見ていく必要がある。

そう言ってしまえば、現代とは「人間の生きる意味が失われた時代」といえる。

ニーチェを引き出すまでもなく、現代においてそれまで人々の外側に存在し行動を規定していた「神」は死んでしまった。神を倒したのは科学を中心とした合理主義だ。

例えばキリスト教に多大な影響を与えたアリストテレスの考えに「目的因」というものがあり、これによれば「石が落下するのはその石が下に落ちようとするため、煙が空高く上るのは煙が上に行こうとしているため」とされる。

もちろん高校レベルの初等力学を持ち出すまでもなく、現代においてこのような考え方をする人間はまずいない (実際には少なからず存在して、そしてそれらの人が時として問題を起こしたりするから怖いのだが、話がそれるのでここでは割愛する)。

だが、このアリストテレスのような「あらゆる事物がその存在に目的と必然性を持っている」という考え方は、世界を理解する上ではわかりやすい。

そしてこの考えを人間に対して当てはめれば、人間の一生や存在にも目的があるということになり、本来不明瞭であるはずの人間の一生に対しても明確な意味と方向付けを与えてくれる。

そのため人間は「神」という存在を創造し、そして自らが創り上げた神に進んで騙され従事するようになったのだ。

すなわち神とはトランキライザー(精神安定剤)である。

「自由」と「不安」

けれども今や「神は死んで」しまった。もちろんこの神を殺害した科学と合理主義がこれまでの古い因習と迷信を打ち崩し、人々を物理的にも精神的にも豊かに、そして自由にさせたのは間違いない。しかしながらこのもたらされた「自由」に人々は苦しむことになる。

それを示すかのように、神という存在の自明さが失われていった19世紀以降、多くの文芸作品において、「不安」というものが多く登場するようになっていく。

例えばサルトルの『嘔吐』では主人公のロカンタンがある日、「あらゆるものが偶然であり、根拠もなく、不条理で、意味がない」ということに気が付いて吐き気を催すようになるという話だし、一方ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』では「もし神がいなければ、すべてが許されるだろう」というフレーズが次男のイワンによって何度も繰り返される。イワンの言葉では「神が無ければ、どんな善行もあり得ないし、善行なんて全く必要なくなる」というものもある。

キルケゴールは『不安の概念』で、絶壁に立つ人は落下への恐怖と同時に身を投げ出したいという衝動への恐怖にも襲われると述べ、自由に選択できるようになってしまった近代社会の恐怖を表現した。

そしてエーリッヒ・フロムは『自由からの逃走』で自由の不安からナチスドイツのファシズムに傾倒していくドイツ国民の姿を描いた。

ここ最近ではレディオヘッドの一連の音楽もそれに連なるものだといえるだろう。

とにかく人生の無目的性の顕在化、そしてそれに伴う不安の感情、虚無主義というテーマはここ1、2世紀の各種作品で繰り返されるテーマなのだ。

一方で日本の場合、多くの宗教学者が指摘するところでは新興宗教の「創価学会」や「幸福の科学」の勢力拡大の背景に「現世利益の追求の肯定」があったというから、そのことからもわかるように神が人々の精神的支柱になったことは無く、その点で西洋とは少し事情が異なる。

ただそうはいっても日本では「神」の代わりに「世間」や「豊かさ」、「経済成長」などといったワードが入るだけで、基本的に「人間の生きる意味が失われた時代」に生きているという点では西洋となんら変わらない。

高度経済成長期を描いた映画『ALWAYS 3丁目の夕日』があれほどの大ヒットとなったのには、ただの懐古主義のみならず、「現代の日本社会とは違う、希望に満ちた世界」を描いたからというのもあるだろう。たとえその「希望に満ちた世界」が実情とはずいぶんと異なるものだとしても。

先ほども名前を出したキルケゴールの作品『死に至る病』では、出世や金儲け、出産など既存の価値観の下で自己を求める活動も、あるいは社会変革など既存の価値観を変革させる理想追及活動も、どちらも「絶望」として退けられる。

なぜなら金儲けや社会変革などでその人の心が一時的に満たされたとしても、結局その最後にある「死」という不可能性から人は逃げられないのだから。

一見なにもかも備えながらも、その実あらゆるすべてにやる気を見いだせない菊池君の姿は、何もかもに「絶望」するキルケゴールのそれに重なる。

「桐島」に影響されない前田君

ところで映画では神木隆之介演じる前田君というキャラクターが登場する。この人物は映画マニアでクラスの女子からは馬鹿にされ、運動音痴で容貌も麗しくないと、あらゆる点で菊池君と対照的なキャラクターである。

(実際の神木隆之介さんはどう見ても整った顔をしているが、この映画ではそう描かれてはいない)

そしてこの前田君は他の登場人物と異なり、桐島がいなくなっても特に困った様子を見せない。

なぜなら、繰り返すが桐島とは「理想や人生の意味、生きがいのメタファー」であり、そして前田君はすでに「映画撮影」というものに自分の「生きがい」を見いだすことが出来ているので、桐島がいてもいなくても関係ないのだ。

それは先述したサルトル『嘔吐』の最後で主人公が「ジャズのような小説を書くこと」に生きがいを見出し、またキルケゴールが最終的に「信仰」に希望を見出したのに似ている。

映画の終盤、屋上で菊池君は前田君に話かける。

そして、報われないかもしれないのに一生懸命取り組むものがある前田君と、そうではない自分を対比させ、思わず泣きそうになってしまう。

屋上から逃げるように飛び出した後で、菊池君はすがるように桐島に電話を掛ける。もちろん桐島(生きがい)は電話に出ない。一方、彼の目の前にはかつて自分が取り組んでいた野球部の練習風景が登場し、そして映画は終わりを迎える。

この後、菊池君がどうなるのかはわからない。再び野球に取り組みそこで生きがいを見つけることが出来るかもしれないし、出来ないかもしれない。そもそもこのまま野球に取り組まないままなのかもしれない。

ラストシーンで呆然と立ち尽くす菊池君の姿、それは意味を消失したこの世界で、自らの手で人生の重みに耐えなければならなくなった現代人の姿を表しているように見える。

参考文献

町山智浩「桐島、部活やめるってよ」<復習編> 」「桐島、部活やめるってよ」<予習編> 」WOWOW町山智浩の映画塾!

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